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2. 出陣の朝、約束の口づけ

Author: 月歌
last update Last Updated: 2025-12-19 20:23:02

「……本当に、行ってしまわれるのですか」

障子越しに差し込む朝の光が、白い帳を淡く透かしていた。

寝台の上で身を起こした蘭珠は、自分の声が震えているのを自覚する。

部屋の中央で甲冑を締め直していた景炎が、手を止めて振り向いた。

漆黒の髪を高く結い上げ、その上から金の冠を載せている。いつもより厳しい横顔。それでも、蘭珠を見ると、ふっと表情が和らいだ。

「行かねばならぬ」

短く告げられた言葉は冷たく聞こえて、けれど、その瞳には迷いが滲んでいた。

蘭珠は掛け布を握りしめたまま、そっとお腹に手を添える。

まだ膨らみと呼ぶにはほど遠い。だが、医官は確かに言った。

――ご懐妊、おめでとうございます。

あの瞬間、世界の色が変わった気がした。

景炎は椅子を蹴るように立ち上がり、子どものように目を丸くしていた。

『本当か? 本当に、余の子か?』

『当たり前ですわ、殿下』

頬を赤くして返すと、彼は笑って、笑って、何度も蘭珠を抱きしめた。

あれほど感情をあらわにする人なのだと、その日初めて知った。

――なのに。

「敵は、そう遠くはないと言っておりましたのに。父上に別の将を向かわせていただくことは……」

言いかけると、景炎は首を横に振った。

「皇太子である余が、最前線に立たねば、兵がついてこん」

「ですが……」

「大丈夫だ」

景炎はゆっくりと歩み寄り、寝台の縁に片膝をついた。

甲冑の金具が小さく音を立てる。

「余は戦に出向くが、勝つために行くのだ。死にに行くのではない」

その手が伸び、蘭珠の頬を包む。

温かい。

冷たい鉄の匂いと、いつもの沈香の香りがまじりあって、涙腺がきゅっと痛くなる。

「泣くな、蘭珠」

「泣いておりませんわ」

そう言いながら、視界が滲む。

情けない。泣きたくないのに、体のほうが勝手に震えてしまう。

「……泣いておる」

景炎が苦笑する。その親指が、溢れた涙をぬぐった。

「余は必ず戻る。お前と、この腹の子のところへ」

彼の視線が、蘭珠の手元――お腹へと移る。

蘭珠もそっと手をどける。

まだ平らな腹を、景炎の大きな手が慎重になぞるように撫でた。

「ここに……余の、子が」

まるで信じられないと言わんばかりに、低く呟く。

戦場では命を奪い、政においては冷静に人を切り捨ててきた男が、今は何よりも脆いものを前にしている。

「殿下」

「……景炎だと言っただろう」

「こ、こんな朝にまで、そんなことを……」

思わず苦笑すると、景炎の肩の力が少し抜けた。

彼は身を乗り出し、蘭珠の額に唇を押し当てる。

「蘭珠。余の后よ」

いつもより、声が低い。

「お前は、強い。子を守れ。余が戻るまで、決して諦めるな」

「はい……」

「余が戻る日まで、誰の嘘にも惑わされるな。

 余が愛しているのはお前だということを、忘れるな」

胸の奥が、ぎゅっと掴まれたように痛む。

(忘れるはずがありませんのに)

あまりに真剣な眼差しで見つめられて、蘭珠は目を逸らすことができない。

景炎は、何かを予感しているのだろうか。

戦だけではない、別の渦が自分たちを呑もうとしていることを――。

「殿下。わたくしは、殿下を信じております」

震える声を抑えながら、蘭珠は言葉を紡いだ。

「どれほど離れても、どれほど噂に惑わされても、最後まで信じております。

 ですから、どうか……ご無事で戻ってきてくださいませ」

「命令の言い方だな」

景炎が少しだけ目を細める。

そう、彼はよく言った。「蘭珠は、たまに余より王者の気配がする」と。

「皇太子妃ですもの」

蘭珠が口を尖らせると、景炎は堪えきれず笑い、そしてそのまま彼女を抱きしめた。

甲冑が胸に当たって痛い。

けれど、その痛みさえも愛おしい。

「戻ったら……」

景炎の声が、耳元に落ちる。

「戻ったら、また三人で散歩をしよう。お前と、子と。

 宮城の庭だけではなく、江南にも行く。お前の故郷を、余に見せてくれ」

「三人で……」

その言葉だけで、涙がまた溢れた。

頭の中に、まだ見ぬ子どもの姿が浮かぶ。

景炎に似た金の瞳か。

自分に似た黒い髪か。

二人で手をつないで歩く光景が、あまりにも鮮やかに想像できてしまう。

「約束ですよ、殿下」

「……ああ。必ず、守る」

景炎は一度蘭珠から離れ、立ち上がる。

その顔から、先ほどまでの柔らかさがすっと消える。

代わりに、一国の皇太子としての鋭い光が宿った。

「出陣の刻だ」

襖の向こうから、侍従の声がした。

「殿下、軍の支度、すべて整っております」

「今行く」

景炎は短く答え、最後にもう一度だけ、蘭珠を振り返った。

「蘭珠」

「はい」

「余の帰りを待っていろ。……余の后として」

「もちろんですわ」

声が震えないよう、蘭珠は胸の前で手を組む。

景炎は満足そうに頷き、踵を返して部屋を出ていった。

襖が閉じる音が、やけに大きく響く。

しん、と静かな空気が残された。

さっきまで感じていた体温が嘘のように消えてしまい、蘭珠は初めて、重く息を吐いた。

「……殿下」

手が勝手に伸び、閉ざされた襖に触れる。

指先に伝わる木の冷たさが、胸の内側まで染み込んでくる。

(行ってしまわれた)

当たり前だ。戦があるのだ。

皇太子である景炎が、自ら軍を率いることは、誰もが望むところなのだろう。

それでも。

「怖い……」

ぽつりと漏れた本音に、自分で驚いた。

蘭珠は、こんなふうに感情をさらけ出したことなど今までほとんどない。

「怖いですわ。殿下がいない世界が」

もしこのまま、彼が戻らなかったら。

この子が父の顔も知らぬまま生まれてきたら。

その時、自分はどうやって微笑んでやればいいのか。

(だめ。縁起でもないことを考えては)

頭を振る。

代わりに、景炎が言ってくれた言葉を一つずつ浮かべた。

――余は必ず戻る。

――余が愛しているのはお前だ。

――三人で江南へ行こう。

「信じなければ」

蘭珠はお腹にそっと手を添えた。

「あなたの父上は、とても強い方ですのよ」

まだ誰の声も聞こえない腹に向かって、ゆっくり話しかける。

「少しばかり口が悪くて、意地を張ることもありますけれど……

 わたくしなんて足元にも及ばないほど、強くて、優しい方ですの」

だからきっと、大丈夫。

そう言い聞かせるように、そっと目を閉じた。

その頃、宮城の外では、軍勢が整然と並び、旗が風を切っていた。

景炎は馬上から城門を振り仰ぎ、一瞬だけ視線を上の回廊へ向ける。

そこには、白い衣に薄紅の上掛けを羽織った蘭珠の姿が小さく見えた。

彼女は遠くからでも分かるほどまっすぐに背筋を伸ばし、じっと景炎を見ている。

(泣いている顔は見せぬのだな)

そう思うと、胸の奥が、きゅ、と締め付けられた。

「殿下、どうかなさいましたか」

隣の将が問う。

「いや」

景炎は首を振り、表情を引き締める。

「行くぞ。余の后と、余の子が待つ宮へ必ず戻るためにな」

号令とともに太鼓が鳴り響き、軍勢が動き出した。

土煙が立ちのぼり、足音が地を震わせる。

蘭珠はその音を、遠くからじっと聞いていた。

やがて軍勢の列が見えなくなっても、その場を離れられない。

「殿下……」

最後にもう一度だけ、風にかき消されるほどの小さな声で呼ぶ。

返事は、もちろんない。

だが、頬を撫でていった春の風が、どこか景炎の手のひらに似ていたような気がして、蘭珠はそっと目を閉じた。

いつか今日の朝を思い返したとき、

蘭珠は知ることになる。

あの「また三人で」という約束が、どれほど残酷で、どれほど甘い嘘だったのかを。

今はまだ、何も知らないまま。

彼女はただ、夫の帰りを信じていた。

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