LOGIN「……本当に、行ってしまわれるのですか」
障子越しに差し込む朝の光が、白い帳を淡く透かしていた。
寝台の上で身を起こした蘭珠は、自分の声が震えているのを自覚する。部屋の中央で甲冑を締め直していた景炎が、手を止めて振り向いた。
漆黒の髪を高く結い上げ、その上から金の冠を載せている。いつもより厳しい横顔。それでも、蘭珠を見ると、ふっと表情が和らいだ。「行かねばならぬ」
短く告げられた言葉は冷たく聞こえて、けれど、その瞳には迷いが滲んでいた。
蘭珠は掛け布を握りしめたまま、そっとお腹に手を添える。
まだ膨らみと呼ぶにはほど遠い。だが、医官は確かに言った。――ご懐妊、おめでとうございます。
あの瞬間、世界の色が変わった気がした。
景炎は椅子を蹴るように立ち上がり、子どものように目を丸くしていた。『本当か? 本当に、余の子か?』
『当たり前ですわ、殿下』
頬を赤くして返すと、彼は笑って、笑って、何度も蘭珠を抱きしめた。
あれほど感情をあらわにする人なのだと、その日初めて知った。――なのに。
「敵は、そう遠くはないと言っておりましたのに。父上に別の将を向かわせていただくことは……」
言いかけると、景炎は首を横に振った。
「皇太子である余が、最前線に立たねば、兵がついてこん」
「ですが……」
「大丈夫だ」
景炎はゆっくりと歩み寄り、寝台の縁に片膝をついた。
甲冑の金具が小さく音を立てる。「余は戦に出向くが、勝つために行くのだ。死にに行くのではない」
その手が伸び、蘭珠の頬を包む。
温かい。 冷たい鉄の匂いと、いつもの沈香の香りがまじりあって、涙腺がきゅっと痛くなる。「泣くな、蘭珠」
「泣いておりませんわ」
そう言いながら、視界が滲む。
情けない。泣きたくないのに、体のほうが勝手に震えてしまう。「……泣いておる」
景炎が苦笑する。その親指が、溢れた涙をぬぐった。
「余は必ず戻る。お前と、この腹の子のところへ」
彼の視線が、蘭珠の手元――お腹へと移る。
蘭珠もそっと手をどける。 まだ平らな腹を、景炎の大きな手が慎重になぞるように撫でた。「ここに……余の、子が」
まるで信じられないと言わんばかりに、低く呟く。
戦場では命を奪い、政においては冷静に人を切り捨ててきた男が、今は何よりも脆いものを前にしている。「殿下」
「……景炎だと言っただろう」
「こ、こんな朝にまで、そんなことを……」
思わず苦笑すると、景炎の肩の力が少し抜けた。
彼は身を乗り出し、蘭珠の額に唇を押し当てる。「蘭珠。余の后よ」
いつもより、声が低い。
「お前は、強い。子を守れ。余が戻るまで、決して諦めるな」
「はい……」
「余が戻る日まで、誰の嘘にも惑わされるな。
余が愛しているのはお前だということを、忘れるな」胸の奥が、ぎゅっと掴まれたように痛む。
(忘れるはずがありませんのに)
あまりに真剣な眼差しで見つめられて、蘭珠は目を逸らすことができない。
景炎は、何かを予感しているのだろうか。 戦だけではない、別の渦が自分たちを呑もうとしていることを――。「殿下。わたくしは、殿下を信じております」
震える声を抑えながら、蘭珠は言葉を紡いだ。
「どれほど離れても、どれほど噂に惑わされても、最後まで信じております。
ですから、どうか……ご無事で戻ってきてくださいませ」「命令の言い方だな」
景炎が少しだけ目を細める。
そう、彼はよく言った。「蘭珠は、たまに余より王者の気配がする」と。「皇太子妃ですもの」
蘭珠が口を尖らせると、景炎は堪えきれず笑い、そしてそのまま彼女を抱きしめた。
甲冑が胸に当たって痛い。
けれど、その痛みさえも愛おしい。「戻ったら……」
景炎の声が、耳元に落ちる。
「戻ったら、また三人で散歩をしよう。お前と、子と。
宮城の庭だけではなく、江南にも行く。お前の故郷を、余に見せてくれ」「三人で……」
その言葉だけで、涙がまた溢れた。
頭の中に、まだ見ぬ子どもの姿が浮かぶ。 景炎に似た金の瞳か。 自分に似た黒い髪か。 二人で手をつないで歩く光景が、あまりにも鮮やかに想像できてしまう。「約束ですよ、殿下」
「……ああ。必ず、守る」
景炎は一度蘭珠から離れ、立ち上がる。
その顔から、先ほどまでの柔らかさがすっと消える。 代わりに、一国の皇太子としての鋭い光が宿った。「出陣の刻だ」
襖の向こうから、侍従の声がした。
「殿下、軍の支度、すべて整っております」
「今行く」
景炎は短く答え、最後にもう一度だけ、蘭珠を振り返った。
「蘭珠」
「はい」
「余の帰りを待っていろ。……余の后として」
「もちろんですわ」
声が震えないよう、蘭珠は胸の前で手を組む。
景炎は満足そうに頷き、踵を返して部屋を出ていった。襖が閉じる音が、やけに大きく響く。
しん、と静かな空気が残された。
さっきまで感じていた体温が嘘のように消えてしまい、蘭珠は初めて、重く息を吐いた。「……殿下」
手が勝手に伸び、閉ざされた襖に触れる。
指先に伝わる木の冷たさが、胸の内側まで染み込んでくる。(行ってしまわれた)
当たり前だ。戦があるのだ。
皇太子である景炎が、自ら軍を率いることは、誰もが望むところなのだろう。それでも。
「怖い……」
ぽつりと漏れた本音に、自分で驚いた。
蘭珠は、こんなふうに感情をさらけ出したことなど今までほとんどない。「怖いですわ。殿下がいない世界が」
もしこのまま、彼が戻らなかったら。
この子が父の顔も知らぬまま生まれてきたら。 その時、自分はどうやって微笑んでやればいいのか。(だめ。縁起でもないことを考えては)
頭を振る。
代わりに、景炎が言ってくれた言葉を一つずつ浮かべた。――余は必ず戻る。
――余が愛しているのはお前だ。
――三人で江南へ行こう。
「信じなければ」
蘭珠はお腹にそっと手を添えた。
「あなたの父上は、とても強い方ですのよ」
まだ誰の声も聞こえない腹に向かって、ゆっくり話しかける。
「少しばかり口が悪くて、意地を張ることもありますけれど……
わたくしなんて足元にも及ばないほど、強くて、優しい方ですの」だからきっと、大丈夫。
そう言い聞かせるように、そっと目を閉じた。その頃、宮城の外では、軍勢が整然と並び、旗が風を切っていた。
景炎は馬上から城門を振り仰ぎ、一瞬だけ視線を上の回廊へ向ける。そこには、白い衣に薄紅の上掛けを羽織った蘭珠の姿が小さく見えた。
彼女は遠くからでも分かるほどまっすぐに背筋を伸ばし、じっと景炎を見ている。(泣いている顔は見せぬのだな)
そう思うと、胸の奥が、きゅ、と締め付けられた。
「殿下、どうかなさいましたか」
隣の将が問う。
「いや」
景炎は首を振り、表情を引き締める。
「行くぞ。余の后と、余の子が待つ宮へ必ず戻るためにな」
号令とともに太鼓が鳴り響き、軍勢が動き出した。
土煙が立ちのぼり、足音が地を震わせる。蘭珠はその音を、遠くからじっと聞いていた。
やがて軍勢の列が見えなくなっても、その場を離れられない。「殿下……」
最後にもう一度だけ、風にかき消されるほどの小さな声で呼ぶ。
返事は、もちろんない。
だが、頬を撫でていった春の風が、どこか景炎の手のひらに似ていたような気がして、蘭珠はそっと目を閉じた。いつか今日の朝を思い返したとき、
蘭珠は知ることになる。あの「また三人で」という約束が、どれほど残酷で、どれほど甘い嘘だったのかを。
今はまだ、何も知らないまま。
彼女はただ、夫の帰りを信じていた。夜更けの回廊は冷え切っていた。蘭珠はその中を、ひとり震えながら歩いていた。産むべき子を抱えた腹を、そっと両手で包み込む。景炎が出陣してから、宮中は目に見えて変わった。侍女たちは蘭珠を避けるようになり、妃仲間も距離を置く。理由はわからない。ただ——景炎が書き送ってきた文が、ぱたりと途絶えた。「何かあったの……?」胸の奥で不安が揺れる。あれほど深く求められ、愛され、「必ず戻る」と誓いさえ交わしたのに。蘭珠は壁に手を添え、深く吸い込んだ。冷たい空気が肺を刺し、胸が締め付けられる。そんな彼女のもとへ、小走りの影が近づく。「蘭珠様、戻られましたか……!」若い侍女・梅香が、顔を青くして頭を下げた。「どうしたの?」「さきほど……皇太子殿下からの伝令が戻りまして」「景炎から!?」思わず声が上ずる。しかし、梅香の唇は震えていた。「……殿下は、勝利を収められました。ですが同時に……“雪瓔(せつえい)”という美女を連れ帰られたとのことです」「雪瓔……?」聞いたことのない名。けれどどこか、冷たい音の響きがした。「敵国の王子の側妾だったそうです。戦場で殿下の命を救い、その知略で勝利にも貢献したと……」——まるで、物語に出てくる傾国の美女。ひとりの女の微笑みが、国を傾ける。蘭珠は胸を押さえた。不安が、ひたひたと足元から満ちていく。「景炎は……無事なのね?」「はい。ただ……お、お姿に変化が……」梅香は言いにくそうに口ごもった。「変化?」「殿下は、まるで別人のように冷たく……雪瓔という女の傍を離れられないとか……」蘭珠の心臓が一瞬止まったように感じた。景炎が他の女から離れない?あり得ない。そんなこと——「梅香。その噂は……本当なの?」侍女の目が揺れ、涙が滲む。「……はい。皆、そのように」音もなく、蘭珠の世界にひびが入った。——景炎が、私以外の女のそばに。「帰りましょう、蘭珠様。お部屋は……まだ温かくしてありますから」「……ええ」蘭珠は歩きはじめた。だが一歩ごとに、胸の奥が軋む。景炎が愛してくれたのは、私ではなかったのだろうか。あの日々は、夢だったのだろうか。いや。あの瞳は嘘じゃなかった。自分を抱きしめた温度も、優しい囁きも、本物だったはず。(もし……誰かが景炎を操っているのだとしたら?)雪瓔
「……本当に、行ってしまわれるのですか」障子越しに差し込む朝の光が、白い帳を淡く透かしていた。寝台の上で身を起こした蘭珠は、自分の声が震えているのを自覚する。部屋の中央で甲冑を締め直していた景炎が、手を止めて振り向いた。漆黒の髪を高く結い上げ、その上から金の冠を載せている。いつもより厳しい横顔。それでも、蘭珠を見ると、ふっと表情が和らいだ。「行かねばならぬ」短く告げられた言葉は冷たく聞こえて、けれど、その瞳には迷いが滲んでいた。蘭珠は掛け布を握りしめたまま、そっとお腹に手を添える。まだ膨らみと呼ぶにはほど遠い。だが、医官は確かに言った。――ご懐妊、おめでとうございます。あの瞬間、世界の色が変わった気がした。景炎は椅子を蹴るように立ち上がり、子どものように目を丸くしていた。『本当か? 本当に、余の子か?』『当たり前ですわ、殿下』頬を赤くして返すと、彼は笑って、笑って、何度も蘭珠を抱きしめた。あれほど感情をあらわにする人なのだと、その日初めて知った。――なのに。「敵は、そう遠くはないと言っておりましたのに。父上に別の将を向かわせていただくことは……」言いかけると、景炎は首を横に振った。「皇太子である余が、最前線に立たねば、兵がついてこん」「ですが……」「大丈夫だ」景炎はゆっくりと歩み寄り、寝台の縁に片膝をついた。甲冑の金具が小さく音を立てる。「余は戦に出向くが、勝つために行くのだ。死にに行くのではない」その手が伸び、蘭珠の頬を包む。温かい。冷たい鉄の匂いと、いつもの沈香の香りがまじりあって、涙腺がきゅっと痛くなる。「泣くな、蘭珠」「泣いておりませんわ」そう言いながら、視界が滲む。情けない。泣きたくないのに、体のほうが勝手に震えてしまう。「……泣いておる」景炎が苦笑する。その親指が、溢れた涙をぬぐった。「余は必ず戻る。お前と、この腹の子のところへ」彼の視線が、蘭珠の手元――お腹へと移る。蘭珠もそっと手をどける。まだ平らな腹を、景炎の大きな手が慎重になぞるように撫でた。「ここに……余の、子が」まるで信じられないと言わんばかりに、低く呟く。戦場では命を奪い、政においては冷静に人を切り捨ててきた男が、今は何よりも脆いものを前にしている。「殿下」「……景炎だと言っただろう」「こ、こんな朝にまで
婚礼から三ヶ月。蘭珠(らんじゅ)はようやく、自分は幸せになれるのだと信じかけていた。朝、目を覚ますと、すぐそばに景炎(けいえん)の横顔がある。「……あ」思わず小さく声が漏れた。金の刺繍を施した寝衣の襟元から、すっと伸びた喉と整った顎のラインがのぞく。(本当に、皇太子様が私の夫なんだ……)いまだに、ときどき信じられなくなる。瑞華一の名家・花家の次女として生まれた蘭珠は、姉より目立たぬようにと育てられてきた。派手ではない。けれど読み書きと琴を好み、物静かで、よく人を見ている――そんな娘。その彼女が、今は皇太子・景炎の枕元で、腕の中に閉じ込められている。「……起きたのか、蘭珠」低い声が耳元で囁いた。景炎が目を開け、細めた金の瞳が、すぐに彼女を捉える。「申し訳ございません、殿下。起こしてしまいましたか」「起こされたなら、こうして抱きしめ直せばいいだけだ」ぐっと腕の力が強くなり、蘭珠は胸板に押し付けられる。彼の体温と、ほのかに香る白檀の匂いに、心臓が跳ねた。「……殿下、朝から、その……」「夫婦なのだから、当たり前だろう?」さらりと言われて、顔が一気に熱くなる。景炎は宮中で「冷徹な皇太子」と囁かれている。血も涙もない、次期皇帝にふさわしい男だと。けれど、ふたりきりの時だけは違う。蘭珠の髪をほどき、指先で梳きながら、眠そうに笑う。「今日は少し時間がある。もう少しだけこうしていよう」「でも、朝議が……」「多少遅れても構わん。父上には『嫁に甘やかされて起きられませんでした』と言っておけばいい」「それは逆では……」思わず突っ込むと、景炎は喉を鳴らして笑った。こういう時、彼は年相応の青年に見える。鋭い眼差しも、残酷とさえ噂される口元も、今はただ、蘭珠だけを甘やかす存在だ。(ずっと、こんな日々が続けばいいのに)胸の奥で、ふとそんな願いが浮かぶ。同時に、気づかないふりをしている不安も、薄く疼いた。ここしばらく、宮中では落ち着かぬ噂が飛び交っている。北の隣国との緊張が高まり、国境での小競り合いが続いている、と。「殿下」蘭珠は、そっと顔を上げた。「本当に、大丈夫なのでしょうか。北境のこと……」景炎の笑みが、わずかに翳る。「耳が早いな。内々の話のはずだが」「女官たちは口が軽うございますから」「ふむ。……大丈夫だ